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物事の見方に関する考察

webmaster ( 2017年2月 3日 19:07 ) | コメント(0) | トラックバック(0)

タイトルを見ると、なんと、まぁ、お堅い内容だこと...、と自分で思ってしまうのですが、これはこの7か月間、ブログにまったく手を付けられないほどの状況を、ふと振り返ったときに、「そういえば、物事に対する見方って、仕事をしていく上でとても重要じゃない?」と今更ながらに思ったからです。

 

さて、質問です。

人はどうして、誰かに何かを言われてカリカリするのでしょう...?

言われたくないことを言われるから?

わかっていることを指摘されるから?

自分ではできないことを押し付けてくるから?

物事がうまく進んでいない、イライラしているタイミングの悪いときに何か言ってくるから?

 

たぶん、どれもが正解なのでしょう。

でも、そうやってカリカリしたところで、何かが解決したり、「あぁ~、すっきりした」!」なんて人はほとんどいないでしょう。

家に帰っても、沸々沸々とすっきりしない気持ちがくすぶっているのが関の山です。

そんな思いで眠ったところで、夢見も悪いし、朝、起きたところでスッキリーなんてことはほぼほぼない...

 

「あ~、こんな生活から早く抜け出したい」と多くの人が思っていると思います。

そんな気持ちで会社に行ったところで、隣を見れば、なんか仕事をしてないように思えてくるし、上司は自分の点数のことばかり気にして、私たちのいいとこ取りばかり。あ~、余計、イライラしてくる...

な~んて、負のスパイラルにはまるだけです。

 

どうにかして、こんな毎日を抜け出したいと思っているにも関わらず、具体的な方法もわからないし、会社の友達と飲んだところで、結局、何の解決にもなってないし...

 

私も昔は、「こいつ、笑いながらメチャ、怒ってるやん」と言われるぐらい、顔は笑っていても怒っていることが多い人間でした。

もちろん、お酒も半端ない量で飲んでました。

怒りとお酒の量は正比例するものです(笑)

 

ただ、そんな私でしたが、海外の人たちとの仕事をしていく中で、「なぜ、彼らはこんなにも私たちにプレッシャーをかけてくるんだろう」と疑問に思い、その理由が理解できたときに、「あっ、私が彼らに対して提示すべき仕事のツボはここなんだ」とわかったときに、すごく楽になりました。

 

そのポイントってなんだと思います?

自分に置き換えて考えてみると意外と理解できるのですが。

海外出張を命じられ、その国に行って会社から指示を受けたことを実施しようとしたら、相手の国の人たちから「できない」「無理」「やれない」といった反応を受けたら、当然、あなたは「いい加減にしろよ、言われたことをやれよ」となるのが普通です。

でも、それが、もし本国にいる人たちに対して、やれない、できない理由を持ち帰らせてあげられることができたら、担当者も楽になるのではないか。

そこが出発点でした。

 

では、ここでもう1つ。

「言われたことをやれよ」の背景には何がありますか?

仕事?

業務命令?

 

仕事や業務命令...

それって、どういう仕組みで成り立っているか考えたことはありますか?

 

仕事って、一人では成立しない物事の仕組みです。

お金を媒体として、そのプロジェクトを完遂するために作られた組織体(この組織体には企業だけではなく、外部の企業やフリーランスの人たちも含まれます)が、ゴールの達成に向けて、決められたルールに従って動いていくことを指します。

 

そのことを理解すると、全てのもの・ことが、様々な背景を持って動いており、それによってそこに介在する人たちがそれぞれのポジションにおいて行動し、活動をしているということが理解できます。

だとしたら、あるポジションの人が自分たちに何かを言ってきたとしたら、その人の後ろにある何かを読み取れば、対応方法やポイントが見えてきます。

 

となると、腹が立ってこなくなります。腹の立ち方が変わってくるのです。

(もちろん、人間ですから腹が立つことはありますが、その感情に振り回されなくなるということです)

 

例えば、目の前の上司がガンガン、自分に何かを言ってきました。

もちろん、真摯に耳を傾ける必要はありますが、その際、やるべきことは自分の感情に耳を傾けるのではなく、上司が投げつけてくる言葉の中から、なぜ、この人は、今、私に、僕にこのようなことを言ってきているのだろうかという、その言動の要因を話の中から探し出すことに集中します。

 

最初は難しいかもしれません。

ですが、これを何回か繰り返してみると、なぜ、この人が今、こんなことを言っているのかといった、その上司の置かれた立場がなんとなく見えてきます。

例えば、完全に無理難題をその上の上司から言われているのか、単に自分の仕事のミスを指摘されて、それをぶつけてきているのか、実は何も理解できていないのでそれがばれるのを恐れてごまかしているのか etc.

 

相手の行動のベースがわかれば、それに対する対処法はいくらでも見つかります。

なので、後は、相手が自分の言いたいことを全部言い終え、一息ついたところで、対処法と考えられる対応策を提示すればいいだけです。

そして、目指すは、この対応方法の上級者。目の前の上司ではなく、その上にいる上司の思考や言動を直上司から読み取り、上の上の上司が何かを言い出す前に先手を打っておくということです。

それによって、今まで起きてきた不遇な状況がかなり改善されます。

 

また、その対応策を説明するとき、非常に重要なのは自分の意見を挟まずに、対応策の段取りをロジカルに述べるということです。

このやり方のコアには、人は自分が理解、納得してしまったことには反論できないという心理学的ベースがあります。

事象をきちんと報告し、上司がその状況を理解した時、上司は無茶を言えなくなるのです。

(まぁ、中には理解してしまうと自分が困るので、何を言われても決して理解しないというスタンスをとっている人もいますが。ただ、こういう人には、たった一言、「で、君はどうやったらいいと思う?」という言葉をプレゼントしたいですね。そうしたら、自分を救うことができる対応方法を周りからもらうことができるのですから)

 

いずれにしろ、いろいろなことはありますが、でも、どうしてこの人はこんな風に言ってくるんだろうとクールに(たぶん、自分自身を他人の様に扱うという訓練は必要ですね)分析するという癖をつけることができると、自分の目の前に多くの対応策があることに気が付くのではないでしょうか。

 

さらっと、エレガントに生きていきたいですよね。

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伝える力

webmaster ( 2016年6月28日 21:10 ) | コメント(0) | トラックバック(0)

先日ジャパネットの元社長の高田明さんのセミナーを聞く機会に恵まれ、その中で心に残ったのは、「目の前にいる人にどれだけの思いを持って、自分の思っていることを伝えているか」ということでした。

自分が思っていることが、本当に目の前にいる人に伝わっているか。伝えたつもりではダメ。確実に伝わっていなければ、まったく意味がない。

 

それは、英語を使って仕事をしている際に、いつも思うことです。

英語が上手い下手ではなく、自分が思っていること、考えていることをきちんと相手に伝えられているか。そして、それと同時に、相手が言っていることをどれだけきちんと理解できているか。

 

私たちはともすると、英語を話すときに話す内容よりも文法の正しさや発音そのものに重きを置く癖があります。

もちろん、英語がきちんと話せることに越したことはありません。

ただ、それを気にするあまり、自分の思っていること、考えていることが相手に伝わりにくくなってしまっていたとしたら、本末転倒と言わざる得なくなります。

 

高田明さんが再三にわたって「あなたは他の人に自分の考えていること、思っていることをきちんと伝えられていますか?」と語りかけられていました。

確かに。

自分が思っていること、考えていることがきちんと伝わっていなければ、始めの1歩から間違ったステップを踏み始めることになる...

そう、だからこそ、自分が伝えたいことを目の前にいる人に正確に伝えるための努力は大切なのです。

 

そうするためには何をしたらいいのか。

これは私のやり方になりますが、私の場合は、可能な限り相手に伝わる言葉を選ぶことを心がけています。どの言葉が相手のストライクゾーンに入る言葉なのかを厳選するのです。

そして、その言葉を探し当てた時に、その言葉を使って自分の考えを話すことにしています。

 

ところが、これがいつも自分たちが使っている言葉と違った言語になったとたん、私たちは文法に固執してしまうのです。

そして、理解し合えない理由を文法のせいにするのです。

 

正直なところ、私も以前はそうでした。

完璧な英語に固執するあまり、話している内容よりも英単語の並びや語尾変化がきちんとできているかなど、まず自分が何を話したいかよりも形にこだわっていました。

そして、何もよりも目の前にいる相手に理解してもらいやすい言葉で、わかりやすく話すということがきれいに抜けていました。

そのため、本当に英語が使える日本人の前で英語を話すのが嫌いでした。

 

もちろん、今も苦手です。

でも、ある時、ふと、気が付いたのです。

ネイティブのように、帰国子女のように話すことはできないんだと。

それはどんなに勉強家で、語学のセンスがあると言われている人たちでも、日本で生まれ育っていない人は最後の最後までネイティブな日本語を話せないのと同じで、私たちがネイティブと同じように英語を話すことは不可能なのです。(もちろん、可能な限り、それに近いレベルにまではなれますが)

 

そのことに気が付いた時に、ふと肩の力が抜けました。

間違えて当たり前。間違えたなら、直せばいいだけ。

帰国子女の人たちに「それ、間違ってます」と言われたとしたら、「了解!」と言えばいいだけなのです。

そして指摘されたところを吸収して、次に使えるようになればいいのです。

また、その指摘を受けた英語だって、アジア圏では堂々と使われていることだってあるのです。

 

私の場合、仕事柄、アジアの人たちとのビジネスが多いのですが、その中では日々、ネイティブと言われる人たちが使う英語とは異なった言い回しや単語でのコミュニケーションが行われています。

それをいちいち、文法が違う、単語が違うと言っていたのでは目的が達成されません。

ビジネスにおけるゴールはお互いがwin winの関係になれるゴールを達成することです。

お互いが最もよく理解できる言葉で、お互いが必要としていることを理解し合い、達成する。それがゴールです。

そこを私たちははき違えてしまうのです。

つまり、社会に出た後と前では、言葉を使う上で設定されているゴールが異なるのです。

 

欧米の人たちとは異なる言い回しだとしても「あぁ、今、目の前にあるこのことを言っているな」とわかることが大切なのです。そして、それに気が付いたら、今度はその言葉を敢えて使うのです。

なぜなら、そのほうが彼らに伝わりやすいからです。

 

この考え方は人によっては間違っていると感じるかもしれませんが、目の前の現実を動かすためには必要なときもあるのです。

 

私は別に文法を勉強しなくてもいいと言っているわけではありませんが(きちんとした英語を勉強する必要はあります。それは、きちんとした日本語を身につける必要があるのと同じです)、フォーカスするポイントがずれているということを、再度、考えたほうがいいのではないかということを思っているのです。

 

では、いったい何にフォーカスを与えたらいいのか。

それはまず「自分が何を伝えたいか」ということを明確に理解し、知ることです。

情報社会が発展してから、多くの人が「即レス」を重視します。

返信内容よりもどれだけ短時間のうちにレスポンスを返したかが、評価の対象になっています。

ところが、その反応の多くが単なる反応だけになっているということです。

つまり、相手が述べていることに対して理解をする前に反応してしまっているため、その反応自体に意味が載せられていないケースが多くなっているのです。

 

本来、何かを伝えるということは、自分が何を伝えたいのかということをきちんと把握してから、その思いを伝えてくれる言葉をセレクトして文章を構成していく作業のことを指します。

本当は時間のかかるはずのこの作業が、スピードが重要とされている現代においては軽視される傾向にあって、結果、相手に自分の伝えたいことが伝わっていないということが起きているように思います。

 

もちろん、どんなに時間を割いても、なかなかこちらが思っていることがうまく伝わらないのが普通です。だからと言ってあきらめるのではなく、常に言い回しや身体の使い方で相手によりよく伝わる方法を模索することは必要なことではないかと思います。

 

皆さんはどう思われますか?

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より多くの人とつながる英語 〜私にとっての英語〜

webmaster ( 2016年4月 9日 18:20 ) | コメント(0) | トラックバック(0)

んなに素晴らしいことは人に伝えなければ...

そう思って、セミナーやコーチングをやろうとしても、なぜだか人が集まらない。

「私がこんなにすごいと思っていることなのに、なぜ?」

「私の伝え方が悪いの?」

 

正直なところ、ずっとモヤモヤが続いていました。

そして、この間、ある人と話をしていた時に、ふと、腑に落ちたことがありました。

 

「××と随分前からのお知合いですか?」

「いいえ、う〜ん、ここ2年ぐらいだと思います」

「そうなんですね。いえ、僕自身は英語は全くダメなんですが、舟生さんの英語がとてもきれいなので...」

「えっ、あっ、ありがとうございます」

「どちらかに住んでいらっしゃったんですか?」

「いえいえ、日本です...」

 

その時、私の中で何かがつながった気がしました。

私が師としている方が開業したい人向けに書かれていたブログの中で、「自分がこれは重要なんだと思っていることより、普通にしている、できていることのほうがすごいことの場合が多い」という主旨のことを書かれていましたが、その言葉がすっと入り込んだ瞬間でした。

 

英語に特化して、日本と海外との調整役を仕事にして早20年。

それでも、私にとっての英語は、未だに一生懸命努力をして、なんとか使っているという感じのものです。

ですが、現場で会う多くの人たちからは、「昔から語学のセンスが高くて、日本語と同じように英語を話しているんだろうな」といった錯覚を持たれることが多いのです。(それは私のハーフのような外見も影響しているんだろうなと思いますが...)

でも、正直なところ、私にとっての英語は谷あり、谷あり、なのです。

重い足を持ちあげ、登っても登っても、頂上は遥か彼方に遠く...

自分でもよくぞ辞めないなと思うことがあります。

ですが、昔の人はよくぞ言ったものです。

「下手こそものの上手なれ」

ここまでくると、下手でもなんでも英語をやっていてよかったなと感謝するばかりです。

 

何を隠そう、私の語学センスは、それほどいい訳ではありません。

これは自分を卑下するわけではなく、客観的に見た時に、スポーツが得意な子とそうでない子がわかるように、語学センスがあるか、ないかといえば、ない方です。

子供の頃の自分を振り返ると、姉妹げんかの際、一番先に手が出るのは私でした。

言語能力が低いため言いたいを言葉にすることができず、その出口を失った思いが募って、手が出ていたのです。そして、手を挙げた私がポロポロ悔し涙を流していました。自分の思いを上手く言葉にできない自分が悔しくて悔しくてたまらなかったからです。

 

そんな私でしたが、なぜだか英語にはあこがれを持っていました。

3つ上の姉から英語の授業の話を聞いては、早く私も中学に行って英語を勉強したいなといつも思っていました。

そして、中学に入って実際に英語を習うようになってからは、その魅力に取りつかれました。

 

でも、ここでも悔しいのは、語学力の無さ。

同じ中学校から英語を習い始めたにも関わらず、英語がグングン上手くなって先生から褒められる子と、私のように好きなんだけれど、一向に英語が上手くならない子との距離はあっという間に広がります。

凹みの連続です。英語のテストは見るも無残。ペンパルクラブに入るも、手紙を出す前の添削は見事に真っ赤か。今考えると直す方も大変だっただろうなと思いますが、あの頃は、いつも心の中で泣いてました。

 

更に仕事で英語を使うようになった時も、自分よりも英語ができる人たちがいる中で、私が大勢の前で通訳をさせられるなど、泣きたくなるシーンはいくつもありました。

このように今に至るまでを振り返ってみても、どれ1つ、英語で楽しい思い出はないのに、なぜ、ここまでやってこれたのか、本当に不思議です。

ただ、面白いことに、毎回、そのようなことがあった後に私の英語を褒めてくれる人が現れるのです。

 

スポーツ関係の仕事で国際連合の会長との会談の時に通訳に入らせてもらいましたが、その際、会談の終了時に「君は今まで日本から来た通訳の中で、一番、きちんと通訳をしてくれましたね」と声をかけられました。

あの時のことを思い出すと、今も身体中、嬉しさがこみ上げてきます。

何しろ、ちょうど自分の英語に限界を感じ、辞めようと思っていた頃だったからです。

 

そのあとも、イベントの現場で通訳に入った際に、現場の方から「いろいろな通訳さんがいるけれど、舟生さんの通訳は僕たちの辛さを一番、相手に伝えてくれました。本当にありがとう」と言われるなど、英語を続ける元気をもらいました。

その他にも「舟生さんの英語は俺たちにも分かる英語だから、ホント、いいねぇ」など、若干、褒められているのかわからないコメントをもらったこともありますが、それでも一緒にいる人が安心できる英語を話してる自分にちょっと自信を付けたりしていました。

 

それ以降、いろいろなことはあるものの、なんだかんだと英語に携わり続けてきたからこそ、いろいろな人たちと出会うことができてきたのだと思っています。

そして、そこで思うのは、私は通訳ではなく、コミュニケーターであるということです。

目の前にいる人たちが思っていることを限りなくその人たちが思っている通りに理解し、それを他の人たちに伝える。時には行間も通訳する。私がやっていることはそういうことだと思っています。

 

また、このような視点に立った時に気が付いたのは、相手に英語が通じないのは、こちらの英語力の問題ではなく、相手の使う言葉のベースや文化背景が違っているということが関与していることもあるということです。

であれば、いち早く相手がわかる言葉の使い方、言い回しをしてあげればいいのです。

 

これが典型的に出るのが、アメリカ人とアジアの人たちが話しているときです。

お互いに意思疎通できたのかしら?というシーンに出くわすことがあります。

それを考えると、現在における英語は以前に比べ同じ単語でも使われている地域と文化が異なると、異なる意味合いを持ち合わせる可能性があるということを念頭に入れておかないと、相手が言っている真の意味をきちんと理解できない場合があるということです。

 

ところで、話は変わりますが、自分でいうのも変ですが、私の英語はかなり平易です。

正直、難しい単語はあまり知らないので、自分の知っている限りの英語を駆使して(多分、日常使用している英単語は大学受験で使用する程度です)、相手に通じるストーリーで英語を話すようにしています。

中には英語の文法が成立していないときもあります。

でも、その言い方が、目の前の相手にとってわかりやすいのであれば、私は英語の文法ではなく、そちらを優先します。

だからこそ、逆にきちんとした英語を身に着けておきたいといつも思っています。

英語には丁寧語はないという都市伝説(英語にも丁寧語はきちんと存在しています)を真に受けず、きちんとした英語(これは現在、提携とされている英語のルールと発音を意味しています)を勉強することは身を救います。

長続きし、応用が利くということです。

それはきちんとしたフォームを知らずに、我流でスポーツをやった場合、あっという間に身体に支障をきたすのと似ています。

またフォーマルを着こなせない人がカジュアルウェアを着た時にどこかだらしなく見えるのと同じです。(格好よく見えないのです)

 

私自身、型にはめられるのは嫌いです。

ただ、正しい型を知り、身につけておくことの大切さは、今になって痛感しています。

そういう意味では、両親に感謝しています。

 

私は子供の頃、かなりのやんちゃだったので、しゃべり方もあまりきれいではありませんでした。

それを口うるさく注意してくれたのは母でした。

「言葉を放っぽって話さない!」

「言葉の最後は、きちんと自分で止める」

私の話し方が荒れるたびに口酸っぱく注意してくれました。

 

その結果、これは面白いことかもしれないですが、インド大使館に勤める方から「あなたの英語はきれいですね。また日本語の話し方が美しいですね」と褒めていただきました。

インドの人に日本語と英語を褒められてもと思うかもしれませんが、逆に自国語ではないため、相手の話し方には敏感なのです。

私自身、そのことを意識して話していたわけではないのですが、その方から頂いた言葉は今も勲章のように残っていますし、自分の日本語が乱れていないかなどを意識するためのいいトリガーとなっています。

 

と、かなり話が横道にそれましたが、私自身、自分の英語力に関しては、まだまだと思っていました。

 

ところが、なぜだか、シーン、シーンで「きれいな英語ですね」と言われてきたことに気が付いたのです。

日々心がけてきたこと。そして、私が普通だと思っていたこと。

そして、その普通にやっていることこそ、周りから見ると普通ではなかったりすることを。

 

本当ですね。

もちろん、どんなに頑張ってもネイティブにはなれないけれど、日本人の両親の下に生まれ、日本で育ち、日本で仕事をしていても、ちゃんとした発音の仕方を学び、日々、訓練することで、きれいな英語を話すことができるようになるんだということを身をもって証明したような気がします。

もちろん、これから先もブラッシュアップです。

 

ただ、今、もし、この日本の社会で英語が好きなのに、思うように上手くならないことで英語に挫折している人がいるならば、私から言えることは、決してあきらめないでくださいということです。

きちんとした口の筋肉の使い方を身に着ければ、英語の発音はあっという間に上手くなります。

そして、それができると、そのサイド・エフェクトとして英語も聞こえるようになるのです。

 

そうなったら後は英語を話すだけです。

そう、ゆっくりと大きな声で。

大きな声でというところがミソです。

 

一度、自分の英語をきちんと見直したいという人は、遠慮なくご連絡ください。

ネイティブにはなれないけれど、それ以上に多くの異なる国々の人たちとコミュニケーションを取ることができるきれいな英語を話すことができるように誰でもなれると確信しています。

そうなりたい方は是非。

皆でグローバルな人間になりましょう!

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通訳の限界②

webmaster ( 2015年10月 1日 12:35 ) | コメント(0) | トラックバック(0)

さて、前回はなぜ通訳には限界があるのかということについて述べましたが、この言葉における問題は1900年代初期のころから言語学者を含める多くの学識賢者によって議論され続けてきたことであり、結果、最終的には個々人において理解される言葉の意味は、その人が持つ文化背景他、様々な外的・内的影響により異なるため、唯一絶対的な翻訳はありえないという見解に落ち着いています。


それを考えると、通訳された内容はオリジナルの言葉を発した本人が意図した内容と異なることは当たり前であり(これは常に海外ビジネスにおいて念頭に入れておかなければならないことです)、そして、それは同じように、直接、自分自身で英語を話す場合においても発生します。 つまり、日本語と英語の間には必ずギャップがあるということです。
そして、その英語もどの国の人が使っているかによって、かなりの意味の幅ができるということです。


もちろん、その大前提として、自分が母国語で理解してないことを英語で話す、通訳することは決してできません。
この部分を勘違いしている人がいます。
TOEICが900点以上あろうとも、話されている内容に関する知識がなければ話す/通訳することはできないのです。
ここに、日本における英語を話すことができる人に対する大きな勘違い/神話があります。 多くの日本人は英語が話せる=日本語を全て通訳できると信じています。 そのため、英語ができるということで、会社に入ったばかりの新人を大きな会議の通訳やメンバーに抜擢したりします。
結果は言うまでもないでしょう...。

また、同時に自分が使っている英語の意味が、自分が思っている意味で相手に伝わっていない可能性があるということを常に頭の中に入れておく必要があります。
なので、英語を話しているときに、「あれ、なんだか変だな」と感じた時には、自分が使用している英単語の意味が、相手には通じていないということを冷静に判断する必要があります。そして、これは海外ビジネスでは必要不可欠な能力となります。


残念なことに日本は長い間、島国であったがために、この感覚を持つことには長けていません。
一方、海外の場合、多くの国々が異なる国と地域と陸続きでつながっています。 そのため、相手の使っている英語で表現されている意味が自分の理解と同じかどうかということを毎回確認するという習慣を子供のころから教え込まれています。 そのため、彼らは会話の端々で、常に確認作業を行います 。


ところがこの確認作業は日本では失礼だと取られるため、ほとんど行われません。 (私はよくやるのですが、確かに嫌がられます。確認された方はどうも、自分の伝え方が上手くないと指摘されていると感じるようです...) そのため、日本の場合、日本人どうしてであっても伝えたい内容が異なっていても、そのまま話が進められ、最終的な到達地点が異なるままでも話が終わるということが多々おきます。
ですが、この確認作業をすることで、ビジネスの精度が上がります。
言葉による意思疎通においては、確認作業は必要不可欠なのです。
確認作業によって大きな齟齬を避けることができ、日本はもとより、海外ビジネスにおけるリスクを小さくすることができるかと思います。


【書籍紹介】

可能であれば、原書と翻訳本を読み比べてみるのもいいかもしれません。

WHYから始めよ!―インスパイア型リーダーはここが違う サイモン・シネック著

http://amzn.to/1M8ToIi

Start with Why: How Great Leaders Inspire Everyone to Take Action Simon Sinek http://amzn.to/1EdwcqZ

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明日開催「セルフ・リスクマネジメントセミナー」@RMCA

webmaster ( 2015年8月27日 12:18 ) | コメント(0) | トラックバック(0)

明日、8月28日(金) 19:00〜20:30、代々木にあるリスク・マネージャー&コンサルタント協会(RMCA)にて、第3回「セルフ・リスクマネジメントセミナーを開催します。

前回は女性の社会進出が進んでいるにも関わらず、女性に対する「社会とは何か」という教育がきちんとなされていないというところから始まり、どのように社会を認識し、女性として社会を生きるとはどういうことなのか、感情のあり方、コントロールの仕方などについて話をしました。

今回は、その次のステップとして、社会を認識している脳をベースにし、脳と身体との関係性について学んでいこうと思っています。

また、このセミナーを踏まえ、9月17日(木)に「セルフ・ヒーリング セミナー」を開催します。

こちらはより、身体に寄り添った形で行います。

セミナー参加者の皆さんには、受講後、自宅でできるセルフ・ヒーリング技術をお伝えします。

こちらもこうご期待!

 

<セルフ・ヒーリング:座学編>

 

【タイトル】セルフ・リスクマネジメント

【日時】 828日(金) 19:0020:30

【場所】 NPO法人日本リスクマネジャー&コンサルタント協会 会議室

              東京都渋谷区代々木1-58-1石山ビル5FJR代々木駅北口/大江戸線代々木駅 徒歩2分 他)

【受講料】無料

【持ち物】筆記用具

【コンテンツ】

              人がどのように社会&世界を認識し、そのことがなぜ身体に影響を及ぼすのか。脳・心・身体の三位一体の構造を理解する。

【お申込み】こちらからご連絡ください(http://www.iecs.co.jp/contact/

 

<セルフ・ヒーリング:身体編>

 

【タイトル】はじめてのセルフ・ヒーリング 〜クリーム編〜

【日時】 917日(木) 19:0021:00

【場所】 株式会社IECs

              港区芝31611 プラシードアープ3F(大江戸線赤羽橋駅 徒歩3分、都営三田線芝公園 徒歩8分 他)

【受講料】15,000円(税込)

【持ち物】筆記用具

【コンテンツ】

              セルフ・ヒーリングに必要な気功技術を伝授し、実際にその使い方を勉強し、自宅でも好きな時にセルフ・ヒーリングができるようにする。

 

【お申込み】こちらからご連絡ください(http://www.iecs.co.jp/contact/

 

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英語加速学習セミナーを終えて

webmaster ( 2015年8月25日 16:32 ) | コメント(0) | トラックバック(0)

先週の土曜日、英語速習セミナーを行いました。

 

かなり盛り上がり、時間を大幅に過ぎての終了となったのですが、その中で話題に上がった1つに、日本人はネイティブ以上に早く英語を話しているということでした。

 

そうなのです。

なぜか、日本人はかなりの高スピードで英語を話す癖があります。

そのために、ただでさえ、抑揚のない英語がより棒読みになってしまいます。そして、そのことがさらに海外の人たちの日本人の英語を聞こえにくくしています。

ところが、英語は実のところ、それほど速いスピードで話す言語ではありません。(もちろん、ニューヨーカーなど、非常に速い地域もありますが)

その理由は、英語は日本語では想像ができないほど、口&顔の筋肉を動さなければきちんとした音にならない言語だからです。

それをやろうとすると、それほど速くは話せないのです。

(参加者の方も、口の筋肉の動かし方に注目して英語を読んでみて、このことに納得されていました)

 

そのため、今回のセミナーにおいて重要視したのは、ちゃんと顔と口の筋肉を使って「子音」を発音することでした。

その理由の1つには、上記の感覚をつかんでもらうということもありましたが、実はその裏には、正しい子音が発音できるようになると、英語が聞こえる耳が作られるからという理由もありました。

(脳は自分が発音している音なのに聞こえないと悔しくなります。そのため、日本人には聞こえなくなってしまっている子音を聞こうと必死になり、英語が聞こえる耳が作られます)

 

次にポイントにしたのは、会話、つまり口語においては今までの英語教育を忘れるということでした。

会話の中においては、英文法が成立していなくてもコミュニケーションは成立するのです。

逆にそのほうが成立するのです。

例えば、日本語でいう「必要?」「ううん、いらない」と言ったような場合、「No need?」「No need.」これで成立するのです。(No needはシンガポール、香港特有のいい方ですが、欧米人の人でも「Need it?」「No.」ぐらいになります)

これを日本人はつい「Do you need it?」と聞かなければいけないと考えてしまうため、とっさのときの英語が口をついて出てきません。

文章は必要ないのです。

(最近の傾向ですが、メールなどでは、主語がわかっている場合、動詞/助動詞から文章が始まることが多くなっています)

 

あっという間の数時間でしたが、セミナーの最後には、オバマ大統領やスティーブ・ジョブズ、ブルース・リーなどなど、様々な人たちのスピーチを聞き、今回のセミナーのキーとなる「子音」がどのように発音されているかを確認し、終了しました。

(この頃には、早い英語でも子音が聞き取れるところにまでになっていました)

 

英語を自由に使えるようになるためのポイントはいくつかありますが、これからは正しい努力をして、越えられそうにもなかった壁を難なく越えていきましょう

 

中学から始めて20年、30年。

これまでの努力を、あっという間に実らせましょう!

 

― 次回 英語加速学習セミナー予定 ―

【日時】 926日(土) 13:0016:00

【場所】 IECs (港区芝31611 3F

【受講料】12,000円(税込)

【持ち物】筆記用具

【コンテンツ】英語速習に必要な「子音」を身に着け、最終的に英語を話せない壁を乗り越える。

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国際人の前に...

webmaster ( 2015年8月 3日 14:18 ) | コメント(0) | トラックバック(0)
実のところ、今回はかなりテーマに困りました。
1つには、私の中で訴えたいことがグルグル回ってしまっているうちに、自分が何を訴えたいのか、何をしたいのかが分からなかくなってしまったからです。

そのような状態のことを、コピーライターの川崎徹さんが以前、「1年の最初に行う言葉の仕込みの量が足りないと、それが例えば、[おはよう]だった場合、最後の[おはよう]を11月25日に使ってしまったとしたら、残りの約1か月は[おはよう]の代わりに、身振り手振りで[おはよう]の代わりをして過ごさなければならない」と書いていたように思います 。

そのような状況の中、つい最近、同じようなシーンに何度となく出くわし、とても不快を感じるとともに寂しく感じることがありました。

この頃、海外で日本人は不躾に映るという評判が出始ているそうです。
私自身、これらのシーンに連続して遭遇しなければ、この評判に対して、「いえいえ、これは日本人の奥ゆかしさが、そう海外に移っているだけですから」と思っていたと思うのですが、この件を通じて、今、日本が抱えているリスクは、グローバル化以前にあるのではないかと思うようになったのです。


[シーン①]
「俺、英語を使って仕事をやっていきたいんで、結構、街中で見かける外国人(ここでいう外国人は、白人を指します)に声かけるんですよ、ヘイ・ユー・ウエルカム・トゥー・ジャパン!ってコテコテの日本語英語で。なんじゃ、こいつみたいな反応有るんですけど、その後も相手の反応お構いなしにまくしたてるんですよ。ダメっすかねぇ、これって...」
あの...、私は何を言えばいいんでしょうか。 TOEIC920点、取っている人が意味不明です...。 確かに日本で英語を勉強するためには、日本にいる外国人に話しかけることは勉強になるからいいとは言われていますが、これは推奨されているやり方とは違うと思うのは私だけ? しかも、この人、今と同じように相手の目を見ずに、しかも外国人には英語に聞こえない日本語、しゃべって、「これ、ダメっすかねぇ」って、なに考えてるの? 本当に海外の人とコミュニケーション取りたいんだったら、相手に対して敬意を表して話しかけるのが、人としての所作じゃない?!
私がかなり腹を立てていることに気が付いた周りが席替えをしてくれたため、その人との会話はそこで終わりになりましたが、その後、席替えをしてくれた人たちも、その人物と話をし、全員、不愉快になったことは言うまでもありません...。

「海外の人たちとコミュニケーションを取る前に、まず、自分の性格を入れ直してから出直してきなさい!」と本当に言いたくなる出来事でした。


[シーン②]
スタンディングバー系のお店に来ていたおそらく大学生の3人組。
「...それでさぁ、俺、英語、できないけどさぁ、一応、言ってやってみたわけ」
(おい、おい、どこの何様だ?)
「もちろん、なんちゃって英語でさぁ、×××××...」
(あっ、私、全く見ず知らずの人間だけど、マジで、そんな言い方で英語話したわけ?っていうか、その話し方そのものが、相手を完全に馬鹿にしてるよね?)
「そしたらさ、結構、これが通じるわけよ...」
近くの場所で本を読みながら飲んでいたにもかかわらず、つい、耳に入って来たこの会話。ねぇねぇ、いくら、君たちが最高学府のうちの1つの大学に行っているからって、相手を馬鹿にするような態度は止めたほうがいいよねぇ。
このお店に入って、お通し出されて、お財布の中身、心配して、びくびくしながら食べるぐらいだったら、人として他人に敬意を払う心を養ったほうがいいよ...

これらは本当に、極一部のことなのだとは思いますが、ただ、本当にこのようなメンタリティで日本がきちんとグローバル化できるのだろうかという危機感を感じるのは、私だけでしょうか?
日本人であることが、いったい、どれだけ偉いのでしょうか?
世界に出れば、日本もカラードで、決していい待遇を受ける人種ではないのです。 そのことをきちんと認識しているのでしょうか?
または、この反応が引け目の裏返しであれば、話は余計、厄介です。

いずれにしても日本にとって、悲しいことです。
偉大な日本は、既に過去の話であり、今後のグローバル化にとって必要なのは、過去の栄光ではなく、これからの未来において、世界人としての品格を持つことではないでしょうか?
国際人とは英語がペラペラに話せて、TOEICが900点以上取れる人のことを指すと考えているのは日本人だけです。

国際人を目指すのであれば、国を超え、相手の文化に敬意を払い、相手に対して自分が持てる英語力を可能な限り発揮して会話をし、相手の言葉を理解するというのが本筋のように思います。
かなり考えさせられるシーンでした。

【書籍案内】

確かに!と思える1冊です。
私たち日本人の特徴です。でも、声をかけるときは相手に敬意をもって話しかけましょう...

英語はまず日本語で考えろ! 本城 武則著
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考えることを忘れた人たちに...

WHYから始めよ!―インスパイア型リーダーはここが違う サイモン・シネック著
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友達の友達は皆、友達⁈

webmaster ( 2015年7月 2日 18:00 ) | コメント(0) | トラックバック(0)

多くの日本人が海外ビジネスで陥る落とし穴の1つが「知り合いの知り合いは信頼できる」という心情です。

さて、皆さんに質問です。
誰も知らない国に行ってビジネスをしなければならないことになった場合、まず皆さんはどうされるでしょうか?
少し想像してみてください。

まず始めに、自分の周りにいる、もしかしたらその国のことについて知っているかもしれない人を探そうとするでしょう。

その際、もし自分の姻戚関係や知り合いにそういった関係者がいたとしたら、「よかった、これでなんとかツテができた...」とほっと心をなでおろされるのではないでしょうか?
この心の動きは、誰にでもある動きです。ただ、日本人の場合、この情動に大きく影響されすぎるのです。

国土が小さく、ほとんどの人が同じ文化背景を持った日本人にとって、「知り合い」といった時の感覚的な近さは、アメリカ、ロシア、中国、インドといった大国とは比べものにならないものがあります。
結果、日本人はツテの先にある人に対して、過剰に信頼してしまいがちなのです。

たとえば、海外でビジネス・ミーティングを終えたら、その後は一人です。
知人のほとんどいない町に放り出されるわけです。
誰かに何かを相談したいと思っても、言葉の壁、文化の違いがあり、なかなか周りの人たちとのつながりを築くことができません。(特に長時間、同じ環境に身体を置いた成人にとっては、これらの新しい環境になじむまで、かなりの時間がかかります)
これを如実に表しているのが、海外におけるレストランで出会う日本人男性です。こそこそと隠れるようにして食事をとっています。
そのため、海外の人は、一目でその人が日本人だとわかると言います。

そのような時に、もしも細いツテだとしても、自分が知っている誰かがいるとしたら心がほっとしませんか? 特にカタコトでも日本語で話しかけられたら...
味方ができたような気になりませんか?
そして、その人がもしビジネスを助けてくれると言ってくれたら、皆さんはどう思われますか??

もちろん、自分の会社が依頼したビジネスパートナーにも手伝ってもらいますが、相談や困ったとき、どちらの言葉に心を動かされるでしょうか?

僕はビジネスにシビアだからそんなことはないという方もいらっしゃいますが、そう言っている方であればあるほど、逆に鴨葱になっているケースがあります。
彼らはキチンと心得ているのです、こういう人ほど、1歩心の中に入って信頼を築いてしまうと誰よりも信頼してくれるということを。

もし、本当にビジネスにシビアであれば、お互いにとってシビアな契約内容をきちんと話し合い、そしてサインをすることができるはずです。
ところが、こういう人たちは、契約書を必ず後回しにします。
その手口は巧妙ですが、流れ的には「ビジネスが成立してからでいいよ」という雰囲気にします。
ところが、これが日本人の心を非常にくすぐります。日本人には何かをしてもらったら、その分をお返ししないといけないと思う気質があります。結果、無料報酬で働いてもらうのは申し訳ないというところで、相手の話に合わせて必要経費(?)を払っていくうちに、気が付いたときには資金が底をついているというケースはよく聞きます。

その原因の根本はメンタルの部分で強く信頼してしまっているということです。
要は「オレ、オレ詐欺」と同じなのです。
本当にわかっていたら、引っかかるわけはないのです。
なのに、信頼してしまうと何から何まで信頼してしまうのが日本人です。

4年前まで日本でアメリカ政府関連の調査コンサルティング会社の支社長をし、現在、シンガポールに家族で移住し、独立系調査コンサルティング会社を開いた友人(ハミングバード・アドバイザリー:http://hummingbird-advisories.com/japanese/index.html)は、その状況を目の当たりにして、日本人の脇の甘さを嘆いています。

他民族との交流の少ない日本人はどうしても、メンタル的に同じ民族または血族の中に安心感を見出します。
ただ、海外に置いて日本と同じような感覚で動くと、本当に危険なのです。

海外とのビジネスを行う場合、自分の判断がメンタル的安心感や信頼感に寄っていないかどうかということを常に気を付けておくということは重要です。

 

【書籍紹介】

外国人から見なくても、若い世代から見ると日本人ってこんなに変!ということを痛感させられる1冊です。

だから日本はズレている  古市 憲寿 著
http://amzn.to/1AfV7Dm

 

逆説的ですが、私たちがどれほど信じやすいのかが理解でき、それを止めることで開かれる未来を教えてくれる本です。

まずは、「信じる」ことをやめなさい 苫米地 英人 著
http://amzn.to/1ResCNC

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国連会議で見えたもの ③

webmaster ( 2015年6月 1日 16:37 ) | コメント(0) | トラックバック(0)

さて、国連をテーマにした話は今回が最終回ですが、ふと気分が変わり、当初考えていたテーマではなく、日本人と海外の人々との間における「食」に対する意識の違いについて書いてみようと思います。

日本は世界でも有数のグルメ国であり、東京にいれば世界各国の料理が食べられると言われていますが、こと、自分たちの食に対する行動を客観的に見てみると、意外と「食ベる」ということに対しては淡泊であると言えます。

では、皆さんに質問します。
14:00までに、どうしても終わらせなければならない仕事があったとします。
時計を見ると11:45。さぁ、皆さんならどうしますか?

まず、日本人であれば、ほぼ100%に近い確率で、お昼を我慢して仕事が終わるまで頑張って、仕事が終わってから食事をとるでしょう。
また、その後も仕事が詰まっている場合は、食事を諦めて夜まで仕事を続けるでしょう。
仮に食べたとしても、誰かにコンビニでおにぎりかサンドイッチを買ってきてもらい、食べながら作業をするというのが日本スタイルです。

そういう感覚に慣れている私たちですが、その眼をふと、脇にやると全く異なる光景が入ってきます。
そう、海外においては、食に対する感覚がまったく異なります。
食事は彼らにとって何よりも重要なのです。食事をせずに仕事をするなど、ナンセンスなのです。

もちろん、時に仕事が本当に詰まっていて、決められた時間までに仕上げなければならないという場合には、彼らも頑張りますが、それでも夜まで食事はお預けという状況はあり得ません。(とは言うものの、多くの場合、仕事が終わっていなくても食事に行ってしまうケースのほうが一般的です。なぜなら、それは時間配分を考えずに仕事を投げた人が悪いという考えに立脚しているからです)
それくらい、彼らにとって食事をとるということは大切なことなのです。

また、あまり知られていませんが、日本のように冷えたご飯を食べられる国民は、かなり少数派だということです。
海外の人々は、どんなに美味しい、有名どころのお弁当であろうと冷えた食べ物に口につけることを気持ち良しとしません。
もちろん、国家元首クラスの会食会で特別弁当などが用意されることはありますが、この場合は、冷えた状態で一番美味しい味となるものが厳選され、提供されているため、上記のケースとは異なります。
ここでいう冷えた食事というのは、本来は暖かい状態で食べるのが美味しいものなのに、諸事情により冷えている食べ物ということであり、これらは他の国の人にとっては食べられるものではありません。
それがたとえ、今半であろうと、吉兆であろうと、金田中であろうと、冷えていたら一様にしてまずいのです。

それが如実に表れるのが、イベントの現場です。
どんなに高級なお弁当でも昼・夜、一週間、冷えたお弁当が続くと、390円のほか弁がおいしく感じるのです。(これは別にほか弁が美味しいと言っているわけではなく、温度感の問題を言っています)

日本のお弁当事情をよく知っている海外のイベント・スタッフは、そのため食事時間になると休憩または日本人スタッフに現場を任せ、外に食べに行ってしまいます。
時に、判断の仰ぎたいのにいない...ということも発生しますが、それでも彼らにとっては暖かいご飯が必要なのです。冷たいご飯は食べたくないのです。

ということで、今後、皆さんが海外の方々と仕事をされるときは、「食」をキチンと扱う必要があるということを頭のどこかに入れておいてもらえればと思います。
そして、食べ物の温度というものに対しても気を付けていただければと思います。
(忙しくて外に出られないときなどは、近所のコンビニ弁当ではなく、ほか弁にするなど...)

これは裏話ですが、今回の国連でも、参加者用のお弁当が足りなくなり、国連の担当者が「暴動が起きる!」と青ざめ、日本人スタッフが近くのスーパーや総菜屋さんにお弁当を買いに走ったということがありました。
日本人であれば、しょうがないですむ話ですが、それですまない海外事情。国連スタッフまでも青ざめたということを覚えておいていただければと思います。

 

【参考文献】

食の恐ろしさを知った作品...

コックと泥棒、その妻と愛人 [DVD]  リシャール・ボーランジェ監督
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昔ありましたね...

注文の多い料理店 宮沢 賢治著
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国連会議で見えたもの②

webmaster ( 2015年5月13日 13:57 ) | コメント(0) | トラックバック(0)

 「日本人は他の国の人々に比べてメンタリティが弱い」とよく言われます。
私自身、これは認めたくない話ですが、事実だと思っています。
 「英語を使って仕事をしています」という人であっても、外国人ばかり、特に欧米の人々が8割を超えるようなパーティや集まりの場では、隅のほうに立って黙々とお酒を飲むか食事をつまむといった行動に出ます。
かくいう私も以前はそうでした。
英語に自信がなく、どうやってあの輪の中に入っていけばいいのかわからず、ポツンとしていました。英語のスピード、話されている会話の内容について行けなかったからです。
もちろん、今も気を抜くと英語が抜け落ちますが、ある時、「私はネイティブじゃないし。それに日本語でもあまり話し上手じゃないし...」と気付いたときに何かが吹っ切れ、そこから周りに英語が話せる日本人がいようといまいと英語を話し始めました。
もちろん、未だに英語に関しては不自由を感じてはいますが、それでもいつかネイティブを超える英語使いになるんだという目標を持って頑張っています。

なぜ、あの頃、私は英語を話すことができなかったのかを振り返ってみると、おそらく私は「いわれのない不安」に取りつかれていたのだと思います。
何を話されているのかわからない恐怖...。皆についていけないと仲間外れにされるのではないか、馬鹿にされるのではないかという恐怖...。
今考えると、バカみたいな話です。被害妄想も甚だしい自分がいました。
日本語が得意ではない外国人の人たちを日本語がよくわからないからって、私たちは馬鹿にするでしょうか?
自分自身のプライドの問題だったんです。

では、なぜこのような感覚が起きるのでしょうか?
私的には、やはり日本は島国であり、長きにわたり単一民族で同じ言語を話してきたハイコンテクストな国だからではないかと思っています。
国連の会議場内を歩くと、本当に多種多様な国から来た人々に出会います。
正直、欧米系の人々は少数派です。
そして、そこで話されている英語は多種多様で、発音もその国々において独特なアクセント、時には文法(シンガポールのシングリッシュ、インドのヒングリッシュなど)を伴っています。慣れていないと、その国の言葉を話されたのかと聞き間違えるようなことも日常茶飯事です。
でも、これらの英語を話している人たちは誰ひとり、自分の話している英語を恥ずかしいとは思っていません。通じなかったら、あの手この手と言い方を変えてみたり、発音をゆっくりしてみたりして、相手に通じるまで根気よく話し続けるだけです。

なぜこのようなことができるのでしょうか?
それは、彼らが住んでいる国は他国と地続きだったりしていて、自分たちの言葉が通じないことはいつでもあるという経験をたくさん持っているからです。

ところが日本では、そういう経験はほとんどありません。
目と目で通じ合うハイコンテクスト文化の国です。大切なのは言葉じゃないという刷り込みがあります。そのため、自分の言葉と意思が通じないと次の手が打てず、殻に閉じこもります。

これは本当にあった話ですが、国連の人たちがスマートフォンを120台、借りたのですが、無くなってはいけないので鍵の閉まる小部屋に入れて、鍵を閉めて立ち去りました。
そうこうしているうちに、その部屋をある用途で使用することになりました。
その時に入ったメールには以下のようなことが書かれていました。
「国連が、××部屋をスマートフォン保管部屋に指定してしまった。国連が決定したことを覆すことは無理だと理解しているが、あの部屋が使えないと業務遂行に支障が出る。舟生さん、至急、国連に交渉してほしい...」

「別にそんな重い意味はなくて、置き場に困っていたから単純に置いただけです。鍵がかかる別の場所があればすぐに動かしてくれます」と返事したかったのですが、私が別件で拘束されていたため、しばらく返事を書けなかったのですが、その間、やり取りされた日本人スタッフ間でのメールの内容はほとんどがパニック状態で、悲壮感さえ漂っていました。
そんな大げさなと思われるかもしれませんが、こういった反応は英語アレルギーを持っている人が取る典型的な反応です。

勇気をもって、もうほんの少しだけ立ち止まって、相手が何を言っているのかを客観的に見聞きすることができれば、相手がだれであれ、「本当にそう?」と疑問を持つことができるはずです。言葉がわからないから「あぁ、もうダメだ」ではなく、そこで踏みとどまることが大切です。
これは私の主観ですが、日本人はきちんと話ができないと言われる由縁はこの辺りにあるのではないかと思っています。

次回は、国連関連話の最終回として、Disability(身障者)の方々への対応について書きたいと思います。

 

【参考文献】

いわれのない恐怖を克服したかったら...

絶対成功する44のルール 苫米地 英人著
http://amzn.to/1PWFev5

 

私も含めて、皆で一緒に自信を持ちましょう...

君は、世界がうらやむ武器を持っている 田村 耕太郎著
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